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種差別と生物学:池田清彦氏の「反・種差別」への反論への反論③

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ひきつづき、池田氏の議論を検討していきます。今回は、以下の一文について考えてみます。

動物は植食性、雑食性、肉食性と食性は三つに分けられるが、ビーガンの倫理をあまねく適用すると、ライオンも植物だけ食って生きろということになりかねない。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83574?page=5

能力をもたなければ要求はできない

池田氏が「ビーガンの倫理」と呼ぶものと、実際のヴィーガンの倫理が異なるものであること(氏が倫理学的な議論を何ら参照しないまま文章を書かれていること)は、これまでの議論から指摘してきたことです。そうした前提はありますが、「利害があれば配慮の対象とすべき」というヴィーガンの(あるいは倫理学の世界で主要な)倫理では、氏の言うように「ライオンも植物だけ食って生きろ」ということになりそうです。

しかし、上記のロジックは「誰を」配慮の対象とすべきかを述べているだけであって、「誰が」配慮をすべきかを述べているものではありません。

まず、常識的なところから見てみましょう。たとえば、三歳児が店でお金を払わずにお菓子を持ち去ったとします。この三歳児は、罪に問われるでしょうか。問われない、というのが世間一般の認識であり、また法律上決まっていることでもあります。なぜ罪に問われないかと言えば、子どもには窃盗が悪いことであると理解する能力がない(とされている)からです。あるいは、刑事罰を決める際に精神鑑定がなされるのも、その犯罪を悪いことだと認識する能力があるかを確認するためです。大人であっても、善悪の判断ができなければ罪に問われません。世間一般の人が子どもに罪を問わないのと同様に、「利害があれば配慮の対象とすべし」というロジックも、理解する能力がない相手に対して課すことはできません。

ライオンの場合では、ライオンがヴィーガンの倫理を理解できるかというと、その見込みはゼロです。理解できないのであれば、他の苦痛を感じる動物を傷つけ殺し食べるとしても、ライオンを倫理的に非難することはできません(そもそもライオンは肉食以外の手段で生きる能力をもたないので、この点からもライオンの肉食を非難できないということにもなるでしょう)。

まとめると、ヴィーガンの倫理は「誰を」配慮の対象とするかに関するものであり、「誰が」配慮をするかは別の次元の問題です。「利害があれば配慮の対象とすべき」というロジックが普遍的なものであって、たとえば哺乳類である猪も配慮の対象となるでしょうが、配慮する能力をもたないライオンが猪を食べたとしても、ライオンを非難することはできません。

このように、池田氏の議論は、配慮の主体と対象を区別しないことによる、不適切なものと言えます。

種差別と生物学:池田清彦氏の「反・種差別」への反論への反論②

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ひきつづき、池田清彦氏の論考を検討していきます。前回の議論からは、たとえば氏の以下のような表明についても、倫理学的には批判の余地が大いにあることになります。痛みを感じるという利害を倫理的な配慮の基準にするなら、人間でなくとも不当に痛みを与えて殺して食べることは、倫理的には当人の自由というわけにはいかなくなるからです。

何を食うか食わないかは、人を食ったりしない限り基本的に自由で、ビーガンが動物を食わないのは本人たちの勝手であって、何の問題もない

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83574?page=2

今回は、この「倫理的な配慮の基準を痛みなどの利害に置く」という前提のもとで、以下の部分について論じてみます。

ビーガンは植物のみを食べるというが、野生のものでない限り、人間が食べる植物は耕作地で作られている作物であることが多く、作物を食べる害虫を殺戮した果ての産物である。牛や豚の命は守るべきだが、害虫は殺しても差し支えないというのは、種差別そのものである。どこかで守るべき命と守らなくてもいい命の線引きをしなければ、人はそもそも生きていけない。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83574?page=3

害虫を殺すことは種差別か

上記の引用部で、氏は牛や豚の命を重視する一方で害虫は殺すという立場も「種差別」ではないかと、反・種差別論者を批判しています。

「種差別」という言葉の捉え方によっては、確かに、牛や豚に配慮して害虫には配慮しないということは、差別にあたるでしょう。種差別が「すべての生き物を平等に扱うべきだ」という主張なら、牛や豚と害虫を異なる仕方で扱うわけにはいかなくなります。

しかし、ピーター・シンガーをはじめとする哲学・倫理学の世界の論者が訴える種差別は、このような考え方ではありません。先述した利害関係の有無を配慮の基準にするなら、牛や豚と害虫はやはり異なった仕方で扱ってもよいという結論になります。牛や豚は、生物学的にもおそらく多くの人の直感でも、痛みや恐怖を感じます。牛や豚を棒で刺せば呻くでしょうし、痛みを感じるための神経系が発達しています。これらの動物が環境(たとえば、動物工場の狭いケージという飼育環境)にてストレスを感じていることも示唆されます(この辺りは生物学の参考書や伊勢田哲司『動物からの倫理学入門』などを参照いただければと思います)。

倫理的に配慮すべきかどうかの基準を利害の有無に置き、そして牛や豚が痛みという利害をもつなら、牛や豚に痛みという害を与えることは倫理的に正しくないことになります。

その一方で、昆虫などの害虫は、痛みを感じるほどの神経系・脳をもってはいません。この点で、害虫を殺すことと牛や豚を殺すことは違います。もちろん、虫であっても無礙に殺してはいけないといった議論はあるでしょうが、それを論理的(倫理的・生物学的)に説明することは困難です。

言い方を変えると「人間は殺してはいけないが牛や豚を殺すのはよい」ということは、「牛や豚を殺してはいけないが害虫を殺すのはよい」ということよりも、論理的な説明が困難です。

なお、猪や鹿といった害獣については、牛や豚や人間と同じく哺乳類であり、痛みを感じるはずですから、単に畑を荒らすからといって殺してよいことにはなりません。畑を守るにも、できるだけ苦痛を感じない仕方で行うなどの工夫が望ましいということになるでしょうが、ここでは立ち入りません。

動物の権利や動物解放といった文脈で使われる「種差別」という言葉は、少なくとも倫理学的な用語として用いられる場合は、このように、「利害があるものは平等に扱うべきであるから、種を理由として差別することは善くない」ということを意味しています。この考え方を基礎とすると、池田氏の以下の文章も問題をはらんでいることになります。

一番合理的で多くの人が納得するのは人とそれ以外のすべての生物の間に線引きをして、人間は特別だとする考えである。もちろんこの考えにも超越的な根拠があるわけではないが、それ以外の所での線引きはすべて恣意的になって、合理的に根拠づけることは不可能だ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83574?page=3

「人とそれ以外のすべての生物の間に線引き」することは、一番納得する人が多いかもしれませんが、はたして「合理的」でしょうか。「生物学的な種が同じであること」と「利害があること」のどちらをより合理的な線引きとするが、ぜひ考えていただきたいと思います。

まだまだ種差別という言葉は日本で知られていない言葉ですので、その倫理学的背景まで理解して使われている場合はごく少数かと思います。ぜひ、このような基礎のある言葉であるということ、理解が広まればと望んでいます。

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種差別と生物学:池田清彦氏の「反・種差別」への反論への反論①

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著名な生物学者である池田清彦氏が、ヴィーガン等の思想の根柢にある「反・種差別」の考えに対して、以下の記事にていくつかの観点から反論をしています。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83574

池田氏は生物学者として卓越した業績を残しておられる一方で、少なくともこの記事では、倫理学上の過去の議論を踏まえていないし、また学ぼうとする姿勢も読み取れません。ヴィーガニズム・動物解放の倫理学的な観点から、池田氏の議論の問題点を指摘してみます。

さまざまなポイントがあり、すべてを一度に扱うと非常に長くなるため、投稿ごとに一つずつ紹介していきます。

ベジタリアンの意識の底に流れる基本的な倫理として、生きた動物を殺して食べるのは残酷だという思いがあることは確かだろう

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83574?page=2

世間一般からの理解はこの引用文の通りかもしれませんが、倫理学的には必ずしもこの通りではありません。動物を配慮の対象にする理由として大きいのは、動物が苦しみを感じるからです。殺すところまでいかなくとも、狭いケージに閉じ込めてストレスの大きい環境下で不自由に生かしておくことも、動物に苦痛を与えることになりますから、避けるべきです。たとえば牛乳や卵は牛や鶏を殺して入手するものではありませんが、動物に不当に苦痛を与えるべきではないという観点からはやはり倫理的に不可となります。

「同じ人間だから」は根拠として不十分

さて、上記の前提である、苦しみを感じるものは動物であっても配慮の対象にしなくてはいけない、という点については説明が必要でしょう。細かい話をするときりがないので、大まかな説明をします。

人間の歴史において、まだまだ道半ばではあるかもしれませんが、奴隷が解放され、人種による差別が禁止され、性別による差別がなくされてきました。それでは、奴隷や有色人種や女性といった虐げられてきた人々に対し、奴隷所有者や白人や男性といった人々と同じように配慮しなければならないのは、どういった理由によるのでしょうか。

一般的には、「同じ人間だから」という回答がなされるかもしれません。しかし、これでは不十分だと考えられます。

「同じ人間だから」配慮しなくてはいけないのは、なぜでしょうか。「同じ人間だから、人間には配慮するべきだが、動物には配慮しなくていい」という論理は、一見もっともに聞こえます。しかし、これは「同じ男性だから、男性には配慮するべきだが、女性には配慮しなくていい」とか、「同じ日本人だから、日本人以外には配慮しなくていい」といった論理と違いがあるでしょうか。

人間を他の動物に対して特別扱いするならば、「種」とか「性別」とか「国籍」といった様々なグループがある中で、「種」というグループ分けだけ特別に重要だとする根拠が必要です。

「種の保存」が大事なら生殖能力をもたない人は配慮しなくてよい?

擁護するための幾つかの根拠がありえますが、ここでは一般的によく言われる「種の保存」の観点を取り上げて、その問題点を指摘してみます。同じ人間であれば子孫を残すことができるけれども、他の動物種とは子孫を残すことができないので、人間は特別に配慮しなければいけないが、動物には配慮しなくてもいい、という考え方です。

この考え方に問題がいろいろある中で、私が大きいと考えるのは、「子孫を残せない人には配慮しなくてよいのか」という問題です。子孫を残せるから同じ人間は配慮すべきだとしたら、生殖能力をもたない、障害をもった人や、高齢の人は傷つけたり殺したりしてもよいことになるのでしょうか。「配慮しなくていい」と言い切って論理を構築することもできるかもしれませんが、ほとんどの人は生殖能力をもたない人でも倫理的な配慮の対象にするべきだと考えるはずです。

ここで、一つのポイントが指摘できます。倫理的な配慮は、「種」(少なくとも「子孫を残せるかどうか」)の観点とは別に考えるべきことだ、というポイントです。

ナイフで人を刺してはいけないのは「痛いから」

一旦、「誰が倫理的な配慮の対象になるのか」ではなく、「何を倫理的な配慮の是非の基準にするか」を考えてみましょう。分かりやすい例として、「罪のない他人をナイフで刺してはいけない」ことは、少なくともまともに社会生活を送っている人々にとっては、全員が同意できる倫理的判断だと思います。では、なぜ「罪のない他人をナイフで刺してはいけない」のか。端的には、ナイフで刺されると痛いからです。傷が深ければ障害が残るかもしれませんし、その事件の恐怖がトラウマとなるかもしれません。肉体的・精神的な苦痛があるから、「罪のない他人をナイフで刺してはいけない」のです。

「罪のない他人をナイフで刺してはいけない」という(とりあえずの)真理の説明として、「苦痛をあたえることになるから」というものと、「同じ人間だから」というものとでは、どちらのほうがより説得力があるでしょうか。少なくとも前者の方が、「ナイフで刺されると苦痛を感じる」「苦痛を与えることは悪い」「だからナイフで他人を刺してはいけない」と、論理的に端的に説明ができます。「同じ人間だから」という要素を加えるとしたら、たとえば、「ナイフで刺されると『人間は』苦痛を感じる」「苦痛を与えることは悪い」「だからナイフで他人を刺してはいけない」といった形になるでしょうか。人間を刺してはいけないのは、人間が「苦痛」という利害関係をもっているからです。「人間だから」というのは、苦痛を感じるための条件の一つにすぎません。

もう一つ例を挙げてみます。世の中には恐怖症をもっている人がいます。たとえば、クモを極端に嫌って、見るだけで恐怖を感じる人がいます。さて、クモを捕まえて、人に見せたとします。ほとんどの人は、クモを見たところでとくに感情が動くわけではないので、とくにクモを見せるのは悪いことではないでしょう。しかし、クモ恐怖症の人となると、話は違います。クモ恐怖症の人にあえてクモを見せると、下手をすればトラウマになってしまいます。「人にクモを見せる」という行為は普通はよくも悪くもないですが、「クモ恐怖症の人にクモを見せる」という行為は悪い行為だと言えそうです。このような判断をするとき、「同じ人間(という種の一員)だから」という理由は倫理的な善悪の基準とはほとんど関係がなさそうです。関係しているのは、「(クモを見ることで)精神的な苦痛を感じるから」という理由です。

苦痛を感じることが基準なら、動物も倫理的な配慮の対象になる

すると、倫理的な配慮をするかどうかの判断基準として、「種」よりも「苦痛」のほうがより直接的だと考えられます。同じような考察によって、「苦痛」に限らず、喜びとか快感といった利益も基準に入れてよいでしょう。利害関係をもつということが、倫理的な配慮をすべきかどうかを決める重要な基準となります。

このように、ヴィーガニズム・ベジタリアニズムの倫理的な理由として、世間一般からは「殺すのは残酷だ」という理解がされているかもしれませんが、より倫理「学」的な議論をしていくと、殺すところまでいかなくとも「苦痛を与えるのは残酷だ」ということになります。また、倫理的な配慮の基準を「利害関係の有無」に置くと、「苦痛を感じる」という「害」をこうむる動物も配慮の対象から除外することは難しくなります。

すべてのヴィーガンや動物解放論者が同じように考えているわけではないですが、倫理学的な背景(の一つ)として、「倫理的配慮の基準は苦痛を感じるかどうか」「動物も苦痛を感じるのであれば配慮の対象とすべき」という論理があることは、ぜひ理解いただきたく思います。

子どもは人より犬を救うことを選ぶ?

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動物解放とかヴィーガニズムとは少し離れるのですが、面白い記事を見かけたので紹介します。

https://www.psychologytoday.com/intl/blog/animals-and-us/202102/why-do-children-prefer-save-dogs-over-people-0

「子どもは命の選択をしなければならないとき、人の命より動物の命を救うことを選ぶ傾向がある」というものです。それぞれ200人強の大人と子ども(5歳から9歳)を対象とした以下のような実験が引用されています。

この実験では、次の条件下で、被験者がどのような判断をするかを訊いています。

  • 2艘のボートが沈もうとしている
  • そのうちどちらかしか救うことができない
  • 一方には人が、もう一方には犬(もしくは豚)が乗っている。その数は、人1名対犬100匹から、人100名対犬1匹まで複数のパターンがある
  • 被験者は、それぞれのパターンについて、人と犬のどちらを救うかを選ぶ

大人では、人1名対犬100匹でも60%以上が人間を救うことを選びました。それに対して、同じ状況で人を救うことを選ぶ子どもは10%程度しかいなかったそうです。さらに面白いことに、人1名対犬1匹でも、人を救うことを選んだ子どもは30%と半数未満で、人100名対犬1匹でも人を救うことを選んだのは70%にとどまる(つまり、残りの30%の子どもは100人を犠牲にしても犬1匹を救うことを選ぶ)ということです。

動物解放の考え方では、「種差別」というキーワードがあります。白人に対して黒人を差別することが不当であるように、また、男性に対して女性を差別することが不当であるように、人間に対して動物を差別することは不当である、という議論です。

「人間と動物は違うのだから差別はあって当然」というのが普通の考え方かもしれませんが、この議論は「白人と黒人は違うのだから差別はあって当然」という議論と同じようなものです。何をもって違うとするのかが議論のポイントですが、「種」の違いが「人種」の違いより決定的だとする根拠がなければ、人種差別を不可としつつ種差別を可とすることはできません。

このとき、どのような利害について論じているのかを明確にしなくてはなりません。もし教育の機会均等の話なら、種差別は認められるでしょう。人間にとって教育が重要な意味をもつ一方で、牛は学校教育を受けても何の利益も得られません。しかし、拘束からの自由という話なら、種差別は難しくなります。昆虫なら、狭い虫籠に閉じ込められても、ストレスは感じないかもしれません。しかし体の向きを変えることもできないような小さな檻に閉じ込められている牛は、ストレスを感じます。利害があるのなら、その利害は配慮の対象とすべきです。

上記は極めて簡単な説明にとどまりますので、より詳しくはピーター・シンガーの著作などを参照いただければと思います。

話を戻します。子どもが犬を人間と同等以上に配慮の対象としているということは、人間は生まれながらに種差別をしているわけではない、ということになりそうです。種差別が、成長の過程で発現するやはり遺伝的なプログラムなのか、それとも教育や環境によって習得することなのかは分かりませんが、子どもの視点からの善悪の判断から学ぶべきことはありそうです。

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