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飼い猫とヴィーガニズム/動物解放

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下らない記事かもしれませんが、ヴィーガニズムや動物解放について考える参考になるものがありましたので、簡単に紹介したく思いました。

https://www.thesun.co.uk/news/14884387/vegan-girlfriend-cat-eating-mice/

簡単にまとめると、
・アメリカの大学生カップルで、女性はもともとヴィーガン。男性は魚は食べるベジタリアンで、付き合い始めるのをきっかけにヴィーガンになる。
・男性は猫を飼っている。
・一緒に暮らそうという話もしているが、女性側から、「猫を飼い続ける限り付き合い続けることはできない」と言われる。
・その理由は、猫が鼠を狩って食べるのは女性の主義に反するし、そもそも動物を飼うことはヴィーガニズムに反するから。
といったところです。

ヴィーガンは動物を飼うか?

まず、動物を飼うこととヴィーガニズムの関係からいきましょう。人がヴィーガンになる理由はいろいろあります。最近取り沙汰されている「環境のため」という目的であれば、ヴィーガンになることとペットを飼育することとの間にはとくに関係はなく、ヴィーガンになることと猫を飼うことは両立するでしょう。健康志向の場合も同様です。健康のためにヴィーガンになったのであれば、やはり猫を飼うことにとくに主義主張上の問題はありません。

ヴィーガンが動物の飼育に反対するのは、基本的には動物解放の観点からヴィーガンになる場合でしょう。私自身もこれにあたります。この考え方にもいろいろなヴァリエーションがありますが、たとえば「利害を感じるのであればその主体の利害を考慮しなければならない」という考え方なら、動物を飼うことはその動物に対して何かしら苦痛や不自由をもたらすものですから認められない、という結論になります(異論はあるでしょうが)。

この点から考えてみると、このカップルはもともとヴィーガンになった理由が異なっていたのではないかと思えます。おそらく女性のほうは動物解放論か、それに近い理由によってヴィーガンとなったのでしょう。しかし男性は、もともと猫を飼っていたわけですから、動物解放については考えたことがなかったか、あるいは重要視していないのでしょう。人の信念は様々なので、ヴィーガンに限らずでしょうが、ヴィーガンという言葉でひとくくりにされても実際には大事にしているものが大きく異なる可能性があります。

誰がヴィーガンになるべきか?

女性の主張のもう一点についても言及しておきましょう。猫が鼠を食べることをどうとらえるか、という点です。

これについて、私は猫が鼠を食べることを悪いことだとは考えません。原則として、できないことを要求することはできないと考えるからです。

たとえば、子どもが罪を犯しても、大人と同じようには裁かれません。これは、子どもが知識や知的能力といった観点から大人と違いがあるからです。悪いということを知らずに犯罪を犯した場合、大人ならば「それが犯罪であると知っているべきだった」として罪に問えても、子どもならば「教わっていないのだから仕方ない」となります。責任を問えるのは、責任を果たす能力があるからです。責任を果たす能力がない相手に対してできない要求をすることは、不当な圧力です。

この観点からすると、猫が倫理を理解する能力があるとは思えませんし、仮にその能力があるとしても言葉が通じない以上それを理解させることは極めて困難でしょう。

そもそも、「動物解放の観点から猫を飼育すべきでない(≒猫を苦しめてはいけない)」と言う一方で「猫が鼠を食べるのはいけない」と猫の利益を制限するのは、矛盾でしかありません。この記事は男性側の投稿を元にしたものなので女性側の主張がどれだけ正確に再現されているのかわかりかねますが、少なくともここに示されている論理は私には納得いくものではありませんでした。

Seaspiracyと漁業の倫理性

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Netflixが制作しているSeaspiracyという映像作品が、物議をかもしているようです。

https://www.pressherald.com/2021/04/10/fishing-industry-blasts-netflix-seaspiracy-documentary-for-suggested-seafood-boycott/

上記のサイトでは、Seaspiracyが誤ったデータに基づいた議論をしているとか、持続可能性の低い漁業形態ばかりを取り上げてサステイナブルな漁業を紹介していない、といった反論がなされています。それは確かにそうでしょう。

動物解放論の立場から残念なのは、結局、漁業に対する批判も擁護も、環境という観点からの議論ばかりがなされていることです。そこで搾取されている魚やそのほかの生き物の苦痛や不幸といった観点は抜け落ちています。環境の観点から結局同じ施策にたどり着くのであれば、それはそれでよいのかもしれませんが…

なお、Seaspiracyの映像へのリンクは以下です。

https://www.netflix.com/jp/title/81014008

ヴィーガンと自称することの違和感

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会食の場では、私は自分自身をヴィーガンあるいはベジタリアンと自称します。

ヴィーガンという言葉はまだあまり一般的ではないかもしれませんが、随分と認知度は高まってきたようです。以前はそもそもヴィーガンだと自称することもほとんどありませんでした。ヴィーガンという言葉を聞いて、それはいったい何なのかという反応がほとんどだったからです。しかし最近は、「ヴィーガンにお会いしたのは初めてです」という反応が返ってくることがしばしばあります。そのため、ヴィーガンという単語を相手が知っているかどうか、ということを以前ほどには心配しなくなりました。

その一方で、これはベジタリアンという単語を使っていたときもそうなのですが、ヴィーガンと自称することには一種の違和感がついてまわります。動物を食べないということが私の信念の本質ではないからです。とくにベジタリアンという言葉だと、肉を食べないということが第一義となるでしょう。ヴィーガンですと、動物性の衣料品を着用しないといったところまで概念としては含まれてはいますが、それでも今の日本では、ヴィーガンという単語から連想されるのは「厳格なベジタリアン」というもので、配慮の対象があくまで食事の場に限られているという印象があります。

私は動物性のものを食べないだけでなく、犬猫をペットとして飼育することや、動物を動物園や水族館で飼育し見せ物にすること、実験のために動物を使用することなどにも反対しています。皮革製品も買いませんし、動物由来の成分を含む化粧品なども買いません。「動物を食べないのだな」とだけ思われると、それは違うと思ってしまいます。

私は肉を食べませんが、それは健康のためではなく、また環境保護のためでもありません(環境保護は目的の一つではありますが、あくまで副次的なもので、第一の目的ではありません)。また、いわゆる動物愛護とも理念のずれがあります。そういうわけで、相手とかその場の雰囲気によって説明を省略したり、そもそも説明をしないこともままありますが、時間があればそして相手が理解してくれそうであれば、私は「動物解放論者」という言葉を用います。

私が動物を食べないのは、それが動物をに危害を加えることだからです。なぜ動物に危害を加えたくないのかといえば、それは(程度の違いはあるでしょうが)動物が人間と同じように痛みとか苦しみとか恐怖といったものを感じるからです。

まだまだ道半ばではあるとはいえ、黒人が解放されたのは彼らが白人と同じく痛みや苦しみや恐怖を感じる存在だからであり、また女性が解放されたのは彼女らが男と同じく痛みや苦しみや恐怖を感じる存在だからです。そうであれば、痛みや苦しみや恐怖を感じる動物も、解放の対象となるでしょう。

なお、黒人や女性を解放する論理として、「同じ人間だから」という理由を挙げる人が多いようです。この場合、人間でない動物は解放の対象となりません。しかし、「人間だから」という主張は、論理的には非常に弱い議論にならざるをえません。「白人だから」とか「男だから」といった論理と決定的な違いがないからです。このことについては、また別の所で詳しく述べることにします。

ベジタリアン・ヴィーガン・動物解放論者の違い

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社会生活を送り、他者との接点をもつ上で、動物解放論がもっとも影響するのは食事のことです。何を食べられるのか、何を食べないのかといったことは、ベジタリアンでない人と一緒に過ごすときに、一番頻繁に問題となることです。そこで必然的に、とくに説明する時間があまりない場合は、私は自分のことをベジタリアンないしヴィーガンと自己紹介することが多いです。

一方、時間がある場合や、深いつながりが生じるであろう相手には、私は自分を動物解放論者だと形容します。

動物解放論と、ベジタリアニズム・ヴィーガニズムは、同じものを指す場合も多いですが、意味するところが異なる場面も多々あります。

動物解放論とは

一般的には、動物解放論はベジタリアニズム・ヴィーガニズムを含むと思われます。奴隷解放や女性解放と同様のロジックで、道徳的配慮の対象として適切に認められていなかった動物という主体にもしかるべき配慮をすべきであるというのが、動物解放論の概要です。したがって、動物解放をとなえるなら、ふつうは動物を殺さない、傷つけない、すなわち動物を食べないというライフスタイルをもつことになります。ただし、動物に今以上の道徳的配慮をすべきと論じていても、それが動物を食べることをやめることまでは要求しない可能性はあります。この場合、動物解放論者であっても、必ずしもベジタリアンであるとは限りません。

ベジタリアニズムとは

一方、ベジタリアンという言葉は、基本的には食生活のスタイルを指すものです。動物解放論の一環としてベジタリアニズムを実践していることも多いでしょうが(私もこれに当てはまります)、肉が嫌いだから食べないとか、アレルギー等の理由でそもそも肉を食べられないといった人も、ベジタリアンであるわけです。また、動物解放論者は食用以外での、たとえば皮や毛といった形での動物の利用も拒否することが普通ですが、動物解放論以外の理由でベジタリアニズムを実践している場合、皮革製品などを使用している可能性があります。

ヴィーガニズムとは

ヴィーガニズムは、ベジタリアニズムをさらに進めたもので、卵や牛乳といった動物の生命を奪わない形であっても、動物の食用での利用を拒むものです。殺されなくとも、狭いケージに囚われてストレスの高い環境で生きざるを得ないのであれば、その動物はしかるべき道徳的配慮を受けていないことになる、というのが、動物解放論的な見地からヴィーガニズムが推奨される理由です。その一方で、たとえばマクロビオティックのような、基本的には人間の健康を旨としての食生活も、内容としてはヴィーガンのものと同様ですから、動物解放論者とヴィーガンが必ずしも重なるわけではありません。

まとめ

上記のように、動物解放論が動物に対する道徳的配慮を要求する立場である一方で、ベジタリアニズム・ヴィーガニズムは動物を食べることを拒むという食生活の面での実践です。私は、より正確に説明をするなら、動物解放論を唱えてヴィーガニズムを実践している、ということになります。

実践していない人にとってはいずれも似たような概念に思えるかもしれません。ベジタリアンや動物解放論者と呼ばれる人々がそれぞれどのような立場をとっているのか、上記で大まかに捉えることができると思います。

はじめに

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私はいま、双子の男の子の面倒を見るため、パパママ育休プラスの制度を使って、2カ月間の育児休暇をとっています(2017年末時点)。

これをきっかけとして、ブログをはじめてみることにしました。仕事と距離をおいて、子どもたちが日に日に成長するのを実感しながら過ごしていると、私もなにか新しいことをやってみようという気持ちになったからです。

ときには気分によってその場限りのテーマで書くかもしれませんが、基本的には、動物開放論、ないしはベジタリアニズムについて語っていくつもりです。私は2006年からベジタリアンで、2010年からはヴィーガンです。ベジタリアンはまだごく少数派ですが、最近は、テレビなどのメディアでもベジタリアンという生き方が多少とりあげられるようになってきました。

しかし、なぜベジタリアンになるのかということについて、まじめに語られることはほとんどないように思います。残念ながら、いまの日本では、大多数の人にとって、動物を搾取しないという生き方は、ただの酔狂であり、他人事でしかありません。ベジタリアニズムは、「なぜ肉を食べないのか?」という形で問われることがほとんどです。これは、マイノリティであるベジタリアンを特異なものとみなすだけで、日常や自分自身に跳ね返ってくる問いではありません。

ベジタリアンの側からのマジョリティへの問いかけはこうです。「なぜ肉を食べてよいのか?」あなたがベジタリアンでないなら、どうかこの問いに納得のいく答えを与えていただけないでしょうか。もしこの問いを自問したことがないなら、このブログが、それを考えるきっかけとなることを願います。