カテゴリー: 未分類

ヴィーガンになるうえでのハードル

No Comments

ヴィーガンやベジタリアンになりたいと思っても、実際にそうなるうえではいくつかのハードルがあるように思います。ここでは、私自身がどのようなことを障害と感じたかについて紹介していきます。

「カミングアウト」のハードル

私が最も大きな困難だと感じたのは、ベジタリアンになると人付き合いが多少制限されてしまうということでした。自分がベジタリアンやヴィーガンであると開示したら、相手がどのように思うか。もしかしたら、自分のことを付き合いづらい人と感じるのではないか。下手をすると、変な宗教にはまっているとか思われるのではないか。家族や親戚に肉屋とか畜産業者がいたら気分を害するのではないか……。こうしたことを考えると、どうしても不安になってしまいます。

それに、人付き合いでは食事は欠かせないもの。そうした場で、自分がベジタリアンであるということを明かさないわけにはいきません。

初対面の人に対して自分がヴィーガンであるとかベジタリアンであるとか開示することは、私はさほど困難に感じません。その一方で、ヴィーガンになったということを旧来の知人に伝えるのは、なかなか思い切りが必要なことです。とくに私の場合は、家族に伝えることに最も苦労しました。残念ながら、今はまだヴィーガンやベジタリアンというものに対しての認知度・理解度が高くはないため、ヴィーガンになったと言うと、怪しい宗教にでもはまったのではないかなど心配されてしまいかねません。こうした開示のハードル――ある意味ではカミングアウトのハードル――が、私にとってヴィーガンとなるうえで最大の課題でした。

健康・体づくりのハードル

こうした心理面のハードルに対して、身体面でのハードルもあります。動物性のものを食べずに健康な体を維持できるのかということは、通常の食生活を送っている人にとって大きな心配事でしょう。自分がヴィーガンであるという話をすると、次の質問は決まって、「体は大丈夫ですか?」というものです。

世の中に多数のヴィーガンがいるのですから、動物性のものを食べなくとも生きていけるということの端的な証拠はあります。しかし、食べられるものが限られる以上、健康維持のために通常以上の配慮が必要になることは当然です。

過去の食生活を大きく変えて新しい食生活に入っていくということは、なかなか勇気のいることです。ましてスポーツをしている人であれば、体づくりの観点から、どうしても動物性のものを食べないことは不利になってしまいます。私も今は現役を退いていますが、学生のころはある競技を本格的に行っていましたし、そのためにウェイトトレーニングを週に3-4回は行うという生活を送っていました。私の場合、厳密にはベジタリアンになった後に本格的なトレーニングを始めたので、その点では体づくりの観点からの心配はそれほど大きくはなかったかもしれません。もしあなたがもともと体をある程度つくっていらして、そこからベジタリアンになろうとする決心をされるのでしたら、この点でのハードルはますます高いものになるでしょう。

味の誘惑

私にとっては以上の二つがベジタリアンになる上での障害でした。ここにあえてもう一つ加えるとするなら、意志の問題があるでしょう。肉を食べない、魚を食べない、牛乳を飲まない、といったことを決めても、その味の誘惑はたいへんに大きいものかもしれません。

幸い、私は肉を食べたいという衝動を感じません。今でも子どものころに食べた肉や魚の味はよく覚えていて、その味は決して嫌いではなく、むしろ好物でした。しかし、肉を食べることからえられる私の喜びよりも、そのために肥育され屠殺される家畜の苦しみの方がよほど大きいことが容易に想像されますし、そう思った途端に、私が肉を食べることからえられる喜びは急速にしぼんでいくように思うのです。私はだからこそベジタリアンになり、ヴィーガンになったのです。

選択肢の少なさ

さらにもうひとつだけ挙げるなら、生活上の支障・面倒くささも、障害の一つとなるでしょう。食生活の面で言えば、ベジタリアンならまだコンビニのパンなども食べられるのでそれほど大きな苦労はないかもしれませんが、ヴィーガンともなると、レストランで注文できるのはご飯とカスタマイズしたサラダだけ、コンビニで買えるのはおにぎりだけ、スーパーのインスタント麺の棚には食べられるものがひとつもない、というのが多くの場合の現実です。日常生活であれば慣れてしまえば大した苦労はないのですが、旅行に出かける場合など、少しでも日常から踏み出そうとすると、途端に制限されることが多くなります。

食事以外の面についても、カジュアルなら服ならともかく、スーツなどフォーマルな服を選ぶ場合は、ほとんど毛が入っているものなので、途端に選びにくくなります。靴も、フォーマルな印象を与える合皮製の靴というのはなかなか見当たりません。ベルトや財布、名刺入れといったアクセサリーもなかなか厄介です。

これはベジタリアンになるという強い意志をもち、それを周囲に開示して実際にベジタリアンやヴィーガンの生活を続けていたとしても、絶えずつきまとうものです。厄介ではありますが、必ず何かしらの選択肢はありますので、あなたがまだヴィーガンやベジタリアンでないのなら、いろいろなところから情報を収集して手段を見つけていただければと思います。

なぜヴィーガンになったのか?(1)

No Comments

自己紹介がてらに、私がヴィーガンになった経緯を書きます。
それを通じて、ヴィーガンやベジタリアンの生活に興味がありながらも一歩を踏み出せないでいる読者の方を後押しすることができればと望んでいます。

また、ベジタリアニズムに否定的な人には、さしあたりは、世の中に過激な運動などするベジタリアンも確かにいるものの、「普通の」ベジタリアン・ヴィーガンはまさに人畜無害で、世間とうまく折り合いをつけて自分たちなりの生き方をしようとしているだけなどだということを、分かっていただければと思います。

なお、人に説明するとき、面倒なので私は自分のことを「ヴィーガン」と形容しますが、本心としては、私はヴィーガンである前に動物開放論者です。
ヴィーガンと動物開放論者がどう違うか、あるいは動物開放論者と動物愛護論者がどう違うか、といったことがお分かりであれば上記の説明で私の言わんとするところは理解していただけるのではないかと思っていますが、差し当たりはこの細かいところは措いて、私がヴィーガン(と世間で呼ばれ、自分でも一応自称する種類の人間)になった経緯を語ります。

私は1987年の生まれで、地方都市の郊外の、ちょうど都会と田舎の中間くらいの町で育ちました。車で30分も行けば100万都市の繁華街に近いところに至る一方で、反対方向に30分行くと過疎化の進む限界集落のようなところがありました。

私の家の周りは、小学校に上がるころまではほとんどが田んぼで、毎日のように虫取りをして遊んだものでした。

それが、中学に上がるころには、田んぼの半分くらいは埋め立てられてアパートやマンションになり、「原風景」とも言うべきものは、あっという間に失われてしまったのでした。

さて、少なくとも幼いころは虫とか動物に囲まれた生活をしていたので、なんとなくではありますが、「動物を殺して食べる」ということに違和感がありました。

大人たちは「かわいそうだから動物をいじめないように」といったことを言う一方で、牛や豚や鶏や魚は何のためらいもなく食べている。私自身も、肉の味は好きでした(今でもその味は覚えていて決して嫌いではありません)から、それを批判することは到底できなかったのですが。

さて、小学校も高学年のころになると、どこからか、「ベジタリアン」という言葉を聞くことがありました。その当時は、好きな肉を断って、野菜だけ(実際にはベジタリアンは野菜だけで生きているわけではないのですが)で生きるということがひどく難しいことだと思いつつも、そうした動物にやさしい生き方ができれば素晴らしいことだと、半ばあこがれのように感じていました。

転機が訪れたのは、中学生のときに、縁あってイギリスを旅行したときのことです。

それまで、ベジタリアンというのは、私にとってはどこか遠い世界にいる人たちでした。ところが、イギリスを旅行してみると、片田舎のレストランにも、メニューにベジタリアン用の料理がある。
実際にベジタリアンに出会ったわけではないのですが、ベジタリアンというものが現実に生きている、それも普通のレストランが考慮すべき対象とするほどに市民権を得た生き方である、ということに驚くとともに、そういう生き方を選ぶのはそれほど特別なことではないのかもしれない、と考えるきっかけとなりました。

そうしてすぐにベジタリアンになる、というわけではなかったのですが、この体験がなければ、ベジタリアンになるのにもっと時間がかかったのではないかと思います。

肉を食べないという選択が少なくともある土地では普通の生き方であるということ。これを知ることは、大きな一歩でした。

つづく。