月: 2020年9月

ヴィーガンになるうえでのハードル

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ヴィーガンやベジタリアンになりたいと思っても、実際にそうなるうえではいくつかのハードルがあるように思います。ここでは、私自身がどのようなことを障害と感じたかについて紹介していきます。

「カミングアウト」のハードル

私が最も大きな困難だと感じたのは、ベジタリアンになると人付き合いが多少制限されてしまうということでした。自分がベジタリアンやヴィーガンであると開示したら、相手がどのように思うか。もしかしたら、自分のことを付き合いづらい人と感じるのではないか。下手をすると、変な宗教にはまっているとか思われるのではないか。家族や親戚に肉屋とか畜産業者がいたら気分を害するのではないか……。こうしたことを考えると、どうしても不安になってしまいます。

それに、人付き合いでは食事は欠かせないもの。そうした場で、自分がベジタリアンであるということを明かさないわけにはいきません。

初対面の人に対して自分がヴィーガンであるとかベジタリアンであるとか開示することは、私はさほど困難に感じません。その一方で、ヴィーガンになったということを旧来の知人に伝えるのは、なかなか思い切りが必要なことです。とくに私の場合は、家族に伝えることに最も苦労しました。残念ながら、今はまだヴィーガンやベジタリアンというものに対しての認知度・理解度が高くはないため、ヴィーガンになったと言うと、怪しい宗教にでもはまったのではないかなど心配されてしまいかねません。こうした開示のハードル――ある意味ではカミングアウトのハードル――が、私にとってヴィーガンとなるうえで最大の課題でした。

健康・体づくりのハードル

こうした心理面のハードルに対して、身体面でのハードルもあります。動物性のものを食べずに健康な体を維持できるのかということは、通常の食生活を送っている人にとって大きな心配事でしょう。自分がヴィーガンであるという話をすると、次の質問は決まって、「体は大丈夫ですか?」というものです。

世の中に多数のヴィーガンがいるのですから、動物性のものを食べなくとも生きていけるということの端的な証拠はあります。しかし、食べられるものが限られる以上、健康維持のために通常以上の配慮が必要になることは当然です。

過去の食生活を大きく変えて新しい食生活に入っていくということは、なかなか勇気のいることです。ましてスポーツをしている人であれば、体づくりの観点から、どうしても動物性のものを食べないことは不利になってしまいます。私も今は現役を退いていますが、学生のころはある競技を本格的に行っていましたし、そのためにウェイトトレーニングを週に3-4回は行うという生活を送っていました。私の場合、厳密にはベジタリアンになった後に本格的なトレーニングを始めたので、その点では体づくりの観点からの心配はそれほど大きくはなかったかもしれません。もしあなたがもともと体をある程度つくっていらして、そこからベジタリアンになろうとする決心をされるのでしたら、この点でのハードルはますます高いものになるでしょう。

味の誘惑

私にとっては以上の二つがベジタリアンになる上での障害でした。ここにあえてもう一つ加えるとするなら、意志の問題があるでしょう。肉を食べない、魚を食べない、牛乳を飲まない、といったことを決めても、その味の誘惑はたいへんに大きいものかもしれません。

幸い、私は肉を食べたいという衝動を感じません。今でも子どものころに食べた肉や魚の味はよく覚えていて、その味は決して嫌いではなく、むしろ好物でした。しかし、肉を食べることからえられる私の喜びよりも、そのために肥育され屠殺される家畜の苦しみの方がよほど大きいことが容易に想像されますし、そう思った途端に、私が肉を食べることからえられる喜びは急速にしぼんでいくように思うのです。私はだからこそベジタリアンになり、ヴィーガンになったのです。

選択肢の少なさ

さらにもうひとつだけ挙げるなら、生活上の支障・面倒くささも、障害の一つとなるでしょう。食生活の面で言えば、ベジタリアンならまだコンビニのパンなども食べられるのでそれほど大きな苦労はないかもしれませんが、ヴィーガンともなると、レストランで注文できるのはご飯とカスタマイズしたサラダだけ、コンビニで買えるのはおにぎりだけ、スーパーのインスタント麺の棚には食べられるものがひとつもない、というのが多くの場合の現実です。日常生活であれば慣れてしまえば大した苦労はないのですが、旅行に出かける場合など、少しでも日常から踏み出そうとすると、途端に制限されることが多くなります。

食事以外の面についても、カジュアルなら服ならともかく、スーツなどフォーマルな服を選ぶ場合は、ほとんど毛が入っているものなので、途端に選びにくくなります。靴も、フォーマルな印象を与える合皮製の靴というのはなかなか見当たりません。ベルトや財布、名刺入れといったアクセサリーもなかなか厄介です。

これはベジタリアンになるという強い意志をもち、それを周囲に開示して実際にベジタリアンやヴィーガンの生活を続けていたとしても、絶えずつきまとうものです。厄介ではありますが、必ず何かしらの選択肢はありますので、あなたがまだヴィーガンやベジタリアンでないのなら、いろいろなところから情報を収集して手段を見つけていただければと思います。

ヴィーガンと自称することの違和感

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会食の場では、私は自分自身をヴィーガンあるいはベジタリアンと自称します。

ヴィーガンという言葉はまだあまり一般的ではないかもしれませんが、随分と認知度は高まってきたようです。以前はそもそもヴィーガンだと自称することもほとんどありませんでした。ヴィーガンという言葉を聞いて、それはいったい何なのかという反応がほとんどだったからです。しかし最近は、「ヴィーガンにお会いしたのは初めてです」という反応が返ってくることがしばしばあります。そのため、ヴィーガンという単語を相手が知っているかどうか、ということを以前ほどには心配しなくなりました。

その一方で、これはベジタリアンという単語を使っていたときもそうなのですが、ヴィーガンと自称することには一種の違和感がついてまわります。動物を食べないということが私の信念の本質ではないからです。とくにベジタリアンという言葉だと、肉を食べないということが第一義となるでしょう。ヴィーガンですと、動物性の衣料品を着用しないといったところまで概念としては含まれてはいますが、それでも今の日本では、ヴィーガンという単語から連想されるのは「厳格なベジタリアン」というもので、配慮の対象があくまで食事の場に限られているという印象があります。

私は動物性のものを食べないだけでなく、犬猫をペットとして飼育することや、動物を動物園や水族館で飼育し見せ物にすること、実験のために動物を使用することなどにも反対しています。皮革製品も買いませんし、動物由来の成分を含む化粧品なども買いません。「動物を食べないのだな」とだけ思われると、それは違うと思ってしまいます。

私は肉を食べませんが、それは健康のためではなく、また環境保護のためでもありません(環境保護は目的の一つではありますが、あくまで副次的なもので、第一の目的ではありません)。また、いわゆる動物愛護とも理念のずれがあります。そういうわけで、相手とかその場の雰囲気によって説明を省略したり、そもそも説明をしないこともままありますが、時間があればそして相手が理解してくれそうであれば、私は「動物解放論者」という言葉を用います。

私が動物を食べないのは、それが動物をに危害を加えることだからです。なぜ動物に危害を加えたくないのかといえば、それは(程度の違いはあるでしょうが)動物が人間と同じように痛みとか苦しみとか恐怖といったものを感じるからです。

まだまだ道半ばではあるとはいえ、黒人が解放されたのは彼らが白人と同じく痛みや苦しみや恐怖を感じる存在だからであり、また女性が解放されたのは彼女らが男と同じく痛みや苦しみや恐怖を感じる存在だからです。そうであれば、痛みや苦しみや恐怖を感じる動物も、解放の対象となるでしょう。

なお、黒人や女性を解放する論理として、「同じ人間だから」という理由を挙げる人が多いようです。この場合、人間でない動物は解放の対象となりません。しかし、「人間だから」という主張は、論理的には非常に弱い議論にならざるをえません。「白人だから」とか「男だから」といった論理と決定的な違いがないからです。このことについては、また別の所で詳しく述べることにします。