ヴィーガンと自称することの違和感

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会食の場では、私は自分自身をヴィーガンあるいはベジタリアンと自称します。

ヴィーガンという言葉はまだあまり一般的ではないかもしれませんが、随分と認知度は高まってきたようです。以前はそもそもヴィーガンだと自称することもほとんどありませんでした。ヴィーガンという言葉を聞いて、それはいったい何なのかという反応がほとんどだったからです。しかし最近は、「ヴィーガンにお会いしたのは初めてです」という反応が返ってくることがしばしばあります。そのため、ヴィーガンという単語を相手が知っているかどうか、ということを以前ほどには心配しなくなりました。

その一方で、これはベジタリアンという単語を使っていたときもそうなのですが、ヴィーガンと自称することには一種の違和感がついてまわります。動物を食べないということが私の信念の本質ではないからです。とくにベジタリアンという言葉だと、肉を食べないということが第一義となるでしょう。ヴィーガンですと、動物性の衣料品を着用しないといったところまで概念としては含まれてはいますが、それでも今の日本では、ヴィーガンという単語から連想されるのは「厳格なベジタリアン」というもので、配慮の対象があくまで食事の場に限られているという印象があります。

私は動物性のものを食べないだけでなく、犬猫をペットとして飼育することや、動物を動物園や水族館で飼育し見せ物にすること、実験のために動物を使用することなどにも反対しています。皮革製品も買いませんし、動物由来の成分を含む化粧品なども買いません。「動物を食べないのだな」とだけ思われると、それは違うと思ってしまいます。

私は肉を食べませんが、それは健康のためではなく、また環境保護のためでもありません(環境保護は目的の一つではありますが、あくまで副次的なもので、第一の目的ではありません)。また、いわゆる動物愛護とも理念のずれがあります。そういうわけで、相手とかその場の雰囲気によって説明を省略したり、そもそも説明をしないこともままありますが、時間があればそして相手が理解してくれそうであれば、私は「動物解放論者」という言葉を用います。

私が動物を食べないのは、それが動物をに危害を加えることだからです。なぜ動物に危害を加えたくないのかといえば、それは(程度の違いはあるでしょうが)動物が人間と同じように痛みとか苦しみとか恐怖といったものを感じるからです。

まだまだ道半ばではあるとはいえ、黒人が解放されたのは彼らが白人と同じく痛みや苦しみや恐怖を感じる存在だからであり、また女性が解放されたのは彼女らが男と同じく痛みや苦しみや恐怖を感じる存在だからです。そうであれば、痛みや苦しみや恐怖を感じる動物も、解放の対象となるでしょう。

なお、黒人や女性を解放する論理として、「同じ人間だから」という理由を挙げる人が多いようです。この場合、人間でない動物は解放の対象となりません。しかし、「人間だから」という主張は、論理的には非常に弱い議論にならざるをえません。「白人だから」とか「男だから」といった論理と決定的な違いがないからです。このことについては、また別の所で詳しく述べることにします。

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